気のせいということ。
気のせいは気のせいである。
ほんとにそんな気がするとそうなったりするという感じなのである。
痛みがあるけれど、いわれてから気づくとかあざなどをみてから段々痛く感じてくるという場合がある。気づいた途端に肩こりだの首こりだの腰痛などがはっきりあらわれてくることがある。
これは、それに気づいたから、その気になったのである。まさに気のせいでそうなった。または、その痛みを助長、強化したのである。
緊張したことのあることを、再度体験するであろうと予測される状況、たとえば、何かを発表したことがありそこでの緊張したことを記憶しており、そういった機会がまた今度あるという時。
そのことを考えると、緊張が実際にからだに生じることがある。まだ発表より前の日であっても緊張する体験を想像するとこわばったりすることがある。それも気になってしまったからかもしれない。
上記のような痛みや不安、心配、緊張がある場合においても、親しい友人と楽しくおしゃべりしている間には、気がまぎれるものである。気がまぎれている間には、ほんとにからだの状態が楽になっていたりするのである。
気のせいというのは、気のせいをコントロールすることができる人なら、比較的容易に解決するが、なにかトラウマ的なことだったり、普段の思考グセだったりがある場合には、その目にはみえない気というものが物質のようにへばりついてしまうようなこともあると考えられる。
このように考えてみると、気のせいというのは気のせいであって、大したことはなかったり、ほんとに気のせいだからバカにできないほどやっかいでもあったりするのである。